当窯は、三川内皿山に祀られる
高麗媼(こうらいばば)を祖先とし、その流れを脈々と今に引き継いでいます。江戸時代以来、みかわち焼を代表する繊細な染付の器をつくり続けてきた窯元です。


江戸時代より、幕府や藩主への献上品として描かれてきた献上唐子絵。この青一色で描かれる絵柄は、当窯の得意とする繊細な染付技術の根源であり、線一本一本に込められた意味や、立体感を表現する高度な技術を、現代にも脈々と受け継いでいます。

十六代 平戸松山
中里月度務
Nakazato Tsutomu

中里彰志
Nakazato Akishi

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当主 十六代平戸松山

植えつけてもらった「やきもの愛」

やきものに必要な技術や知識が身につくだろうと、佐賀県立有田工業高等学校に入学しました。デザイン科へは「やきものをつくるのは、技術よりセンス」という父の考えがあったからです。また将来、やきものを仕事にする人との出会いをさせたいという気持ちもあったと思います。

高校を卒業して、佐賀県立有田窯業大学校へ。それから東京・赤坂にある和食器専門店の陶香堂に入社しました。

その当時は、家業なんて継げばいいだけと思っていました。やきものを特に好きというわけではなかったですし、学校の授業はいい加減。父はそれに気づいていて、この陶香堂の仕事を学ぶことで意識を変えさせたかったのだと思います。

陶香堂はやきものの取引が専門ですが、ガラス工芸や塗り物もありました。また、地方からさまざまな番頭さんが出入りしていたので、産地の情報や事情、新作も、ここにいるだけですべてがわかります。また、見本市があるときは、いつも連れていってもらい、いろいろなやりとりを教わりました。

特に、当時の社長から「やきもの愛」を植えつけてもらい、生半可な意識を根こそぎ変えてもらったことは感謝の気持ちしかありません。この恩を何としても返したいという思いは今もあります。

3年間、陶香堂に勤め、平戸松山窯のレベルが今、どのくらいなのかというのがだいたいわかりました。自分が継ぐ以上、下げることはできない。どうやっても上げていこうと決意し、三川内に戻りました。

先人たちの仕事を研究する

それから父の前に座って、職人さんたちと絵を描く日々。祖父がロクロ師だったので、私はロクロに興味がありました。陶香堂で勤めていた間、やきものは絵重視ではなく、形と細部の仕上げが最も重要だということを教わっていました。だから三川内焼のロクロ職人さんを見て回り、つくり方を聞いて我流で勉強をしました。

絵は父から学びました。「筆はこう動かせ」という具体的なものではなく、「ふわっと行け」「シュッと動かせ」と擬音での感覚的な教え方だったので、最初は戸惑いましたけれど。

細い線を長く引くことを意識しだしたのは、実家に帰って5、6年後、デパートの催事を引き受けたのがきっかけです。そのときに初めて一般のお客様と、つくり手の私が同じ空間で話をする機会を経験しました。良い品でないと買ってもらえない。技術と商売が重なった瞬間でした。

染付にこだわりはじめたのは、15年前くらいから。先人たちの仕事を研究し、参考にするようになってきました。染付は初代清風与平(せいふうよへい)。細い線の技術は、三川内焼の名工で「三猿(さんえん)」と呼ばれた中里巳牛太(みまた)です。この二人の圧倒的な影響を重圧に感じながら目標としています。

つくり手にとって目指すべき人がいるのは大切なことです。もし、自分が次の後継者を育てるときには、こういう重圧を残しておかないといけないと思っています。三川内焼は江戸時代からの延長線上だけでなく、今つくり出すものすべてが未来の三川内焼へと続くもの。そのイメージを胸にいだきながら、やきものを手がけています。

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